人工知能をどう見るべきなのか?
人工知能(AI)は「人工計算機」に過ぎない。
昨今、人工知能(AI)というのが、世間で騒がしく話題になっている。なぜだろうか?宗教なき現代、革命的理念に深く毒されている現代社会に置かれた現代人は、「天主」という存在が否定されてしまい、存在していないかのように無視され、なき存在として天主が扱われている。が、人間という存在は本質的に霊的な世界を望み、超越する存在を渇望せずにいられない。その結果、本物の天主を無視する現代なので、人間性に刻まれている「天主を渇望している」という自然な、必要な欲望を「間違った対象」に向けてしまうのではないだろうか。「偶像崇拝」の近代版に過ぎないが、数えきれないほど多く確認できる現象である。19世紀と20世紀に出てきた多くの「〇〇主義」のイデオロギーはその類である。そして、21世紀になって、「人工知能」はそういったものにも当てはまるに違いない。
要するに、俗にいうと、「人工知能」とは、技術上の儚い進歩を膨大化し、絶対化し、理想化し、幻想と夢想を見る「AI偶像崇拝」となる。というのも、人間という存在はどうしてもこの世での人生がどれほど素晴らしいと思っても、同時に何か自分が堕落しているということをも感じざるを得ない。死ぬから、善いことをやろうとしても悪いことを繰り返しているような惨めな存在である人間。大自然においてもこの世は楽園ではなく、災害も多いことも象徴的であろう。したがって、自然に人間はその本性において救済を求めるようになっている。こういった本性を否定することは可能であるとしても、現実を否定したからといって、その現実は変わるわけではなく、そのまま人間は救済を求め続けている。
ところが、問題が残る。間違った対象においてその救済への渇望を注ぐのは誤謬だからだ。可哀そうな近代なのだ。「人工知能崇拝」はその一種の類いに過ぎない。
ここで、一旦、以上の話を保留しておき、後述させていただくこととし、ひとまず詳しく「人工知能」について考察していきたい。
第一、「人工知能」という言葉は不適切であると言わざるを得ない。「人工知能」とは存在しないし、存在するわけがない。それはなぜか。説明してみよう。「知能」あるいは「知性」というのは、意志と共に、この世では人間という存在にしか備わっていない性質である。「意志と知性」が揃った時こそ「人間だ」と言えて、「意志と知性」は人間を定義する要素である。ちなみに、定義するということは、他の存在と区別できる要素を認定するという意味である。つまり、誰か勝手に定義するのではなく、現実をみて、真実を見て、ある客観物をありのままに捉えることこそ、定義するということだ。ついでだが、「天使」といった純粋なる霊的な存在にも「知性と意志」があるが、身体はないので、「この世での」存在にならない。
したがって、「意志と知性」、または、あえて言えば「意志と知性」より発生する「自由」というのは人間を定義するに値する要素だと言えよう。それは勝手に決めつけるようなことではなく、古代ギリシャから、中世の神学を通じて、どこでもいつでも宗教を問わず真面目な賢者ならば、常識的に現実を見る観察者ならば、だれでも結論できる真理なのだ。
しかしながら、結局、「知」ということは具体的になんであるだろうか。読者の間に幼い子供を持つ両親がいたら、よくわかるだろうが、「知る」というのは、目の前にある「客観物」を取り、その本質を認定でき、把握するということを意味する。「抽象化する能力」、「理念・概念を把握する能力」とでもいえよう。例えば、幼い子供は多くの物事に接触していく中、目の前にある対象を全く「分析」できなくても、その本質を最初から掴む能力が備わっている。だから、ある絵本の中に「犬」を見て実物を見たことがないとしても、町を歩いて、全くその絵本に描かれた「犬」と違う種類の「犬」に出会う時、「犬だ」と言い出す子供。つまり、部分的にも「犬」という本質を「知った」からこそ、「犬だ」と子供が言えたし、つまり「犬」という概念ができるようになり、個別の事例に当てはめていく知性。動物ならば、本質を知ることはできない。感情的に本能的にすぐそばにある個別存在をみて反応するに過ぎない。相手は「危険」あるいは「安全」を反応的にわかる動物であり、反応する動物に過ぎない。人間は違う。習わなければ教わらなければ何が有害であるか何が有利であるかわからないままだ。動物と違って、赤ん坊、いや、子供をほったらかしにしたら、自力で生き残れないで死ぬ。人間は本質をとらえるが(つまり理念を持つことができ、物事を知ることはできるが)、本能的に非常に弱くて何もできない。知ろうとしなければ、無防備のままになり、生き残れない可哀そうな人間。
それはともかく、「人工知能」を見ておこう。明らかに、「知能」ではけっしてない。どれほど量的に力のある計算能力・分析能力を持ったとしても「計算機」に過ぎない。確かに、難しい「計算」を一瞬で計算できる「人工知」だが、本質を把握することはできないし、いつまでもできない。単なる人間によるプログラムに過ぎない。どれほど複雑になったとしても、機械は「知る」ことはできない。意志することもできない。善悪を区別することもできない。作られたとおりに機能するに過ぎなくて、オウムのように繰り返すしかない。「習うことのできるプログラム」に至って、その意味において変わりがない。本物の意味で習うことではない。だから、「人工知」は本来、「人工計算機」に過ぎない。桜の花を観想し、感嘆することはいつまでもできない機械だ。天主の存在を感じることはできない機械。祈ることはできない機械。どれほど人間を真似するようにプログラムされているとしても、いつまでも人間より遠い道具に過ぎない。
「AI」は出鱈目だというのだが、ほっといておくわけがないだろう?
はい、確かにそうだ。AIを偶像崇拝にするわけにはいかないという前提に立つと、当然ながらAIから生じてくる「問題」を見るべきであろう。道具として生かせる分野は多いから、正しく使えばよいわけだが悪用されたら困る。
問題は、「人工知能」といった時、計算的な「分析力」こそが「知」であるという誤謬を犯す危険が大いにある。その挙句、知能ではない「人工知能」を「知能」としてみなす誤謬になる恐れがある。そうなった時、本物の知性を貶めることになり、「人間を量的な分析力に還元」する危険がある。つまり、質や霊的な世界を無視する危険だけは大いにある。つまり、誤った「人工知能偶像崇拝」あるいは間違った「機械主義といったイデオロギー」を正当化するために、「量的な分析力」、「計算力」にならないすべての人間らしい性質を否定して、人間を機械に「還元」させる危険があるということだ。AIに限った話ではなくて、新しい事でもない。例えば、快楽主義というのは、同じような還元主義である。つまり、人間を「動物に還元」させる快楽主義なのだから。同じく、共産主義はすべてを物質次元に還元させて、人間を「労働者」に還元させるイデオロギーである。ところが、還元したところに、現実は変わらない、人間は変わらないが、公式に人間らしい人間性が否定されてしまう挙句、多くの人々は苦しめられて、弊害も多く出てきて、反自然行為、暴力、戦争、無秩序になっていくしかない。こういった悪循環はまさに革命そのものであり、近代そのものである。人間性に沿った秩序を否定してしまうことも人間の自由であるが、その結果、悲しい事にしかなっていかないということは歴史に照らして疑う余地のない事実だ。
だから、「計算機」という技術をどうやって「善く」使っていくべきなのかを考えるのは大事だし、その分、凄い進歩はいっぱいありそうだが、飛躍的にどれほど力強い計算機になったとしても、単なる「計算機」であるから、「人工知能」といい、人々を誤魔化すべきではない。新しい技術のお陰で得られる「便利さ・治療・改善」などなどを見て嬉しく思ってもいいし、「天主によって創造された立派な人間」を思い起こす凄い技術を感嘆するに値するが、それ以上でも以下でもない。大自然をみて感嘆して、超越存在を思い起こすということと似ている。
「人工知能」の偶像崇拝の裏にさらに潜む危険性
どちからというと、「人工知能の偶像崇拝」というのは、より大きなイデオロギーの一環に過ぎない。欧州では2000年代になってから耳にし始めた「トランスヒューマニズム」というイデオロギーの一環に過ぎない「人工知能の偶像崇拝」だ。日本でどれほど紹介されているかわからないが、訳語として「超人間主義」あるいは「異人間主義」と翻訳するとその意味は一番通じるだろう。
ページ数の問題もあるので、簡潔に説明してみよう。生物学と生物技術(ビオテック)、情報技術、「AI」、ロボチック(ロボット学)、それから認知科学、神経学、遺伝子学などの他分野における発明を「利用しようとし」、新しい人間を創ろうとするイデオロギーなのだ。
傾向として、大まかに二つの幻想を抱いているトランスヒューマニズムなのだ。一方、科学の進歩が永遠に続くことを信じて、「人間を無限に増やす」ことによって、超人間を創り、いずれか「死から解放された」超人間を創ろうとするトランスヒューマニズム。いわゆる、再生技術や遺伝子工学やナノテックなどを活かし、人間の「能力」と「寿命」を無限に伸ばし、いずれか「不死身」な人間を作れるだろうとするイデオロギー。他方、ロボットと神経学の無限な進歩により、いずれか、ロボットの中に、人間の脳を移すことができ、その暁に新人間が不死身になっていくだろうと信じる新興宗教なのだ。
結論から言うと、まさに「人間至上主義」の一つの発展に過ぎない。「人間は天主である」という誤謬を犯しているイデオロギーである。超人間あるいはロボットに入れた脳などは結局「人間を天主にする」という傲慢であり、または、「人間は人間を創る天主」という傲慢であるに過ぎない。ありきたりな傲慢ではあるが。
どれほど技術が進歩したとしても、誤魔化されないように気を付けよう。例えば、あるミミズの脳をレゴ(玩具)から作られたロボットに移す(プログラムを作り)実験が行われ、実際に成功した。要するに、そのレゴはミミズのように反応していた。それはすごいことだが、いずれ人間の脳をロボットの中に移せたとしても、霊魂を持つ人間としてその人はいなくなることに変わりがない。そうでもないといわれるかもしれない。が、そうなのである。「そうでもないだろう」という反論はトランスヒューマニズムによる上手い詐欺だと言えよう。「もしかしたら不死身になるかもしれないから」と言われたら確かに誰でもその甘い言葉に揺らぐことがあるだろう。だが、それはあり得ないだけではなくて、何も現実を物語ることでもないし、あえていえば、幻想を抱かせることによって、人間の尊厳を否定する多くの実験をゆるしてもらうためのものにすぎない。そのような試みは無駄な試みにすぎないのであるが、人間の傲慢が無限である限りそのような実験を試みるであろう。倫理上、問題だらけのそれらの悪しき実験は排除すべきだ。
また、人間は天主ではないので、結局、技術がどれほど進歩しても、天主の御業に比べたらかなり貧弱な技術に過ぎない。遺伝学に至って、いろいろ遺伝子を操ったところで、既存する「生命」を虐殺するにすぎないから、人間なんて何の「生命」も創造することはできない。そとから見て「人間が生命を作った」と見えても、近くからみると「なんだ!何も作ってないじゃん。すでにあるところから生命を取り、自分の成果にするだけじゃん」ということに気づく。
もう一つ加えておこう。信仰を持つ人々であれば、聖域の、神秘の生命を犯す冒涜することがどれほど恐ろしいことなのかは深く感じているはずである。しかしながら、信仰を持たなくても理解できるはずであろう。人間を不死身にするという夢がどれほど幻想であるのかを。どれほどそれが人間に定められている死という最後から逃避する気まぐれな、子供っぽい真似に過ぎないかを。また、なぜそれらはあり得ないかというと、霊魂のことを考えよう。ある瞬間に、身体が「生きている」。霊魂がついている状態。次の瞬間に屍となって、同じ身体であるものの、「霊魂」がない状態。だから、脳を「物質的な構造で機械に移せた」としても、霊魂は移されるわけがない。
だから、気を付けよ。どうすべきなのか。
トランスヒューマニズムというイデオロギーは「新人間を創造する」ことは不可能ではあるものの、人類を破壊することぐらいはできるだろう。核の力と同じように、宇宙を創造することはできないが、核兵器で人類を破壊することぐらいできると同じだ。
Googleをはじめ、いわゆるGafa、それと絡みSilicon Valleyの研究への投資、「Singularity大学」などもその典型だが、現代、多くの危険な研究が進められているのだ。有名なる科学者、障害者でもあるStephan Hawkinsは「人工知能が人類を破壊することになってもおかしくない」といった。トランスヒューマニズム主義者として知られているNick Bostrom博士によると、「半分の確率で、ロボット技術上の進歩により、人類は破壊される可能性がある」。
その通りだ。汚く悪く技術を使ってしまったら、多くの犠牲が出るのは当然である。そのことに関して、政治が動き出すべきであり、超えてはいけない限界、生命と人間性を守るように研究に制限を加えるべきであろう。
また、詳しく触れないが、トランスヒューマニズムを信じている人々は、「新人間を創造できる」と盲目的に信じてはいるが、具体的にいうと、凄い金が必要であり、限られた少数の人々だけが超人間になれるともされている。したがって、超人間にならない人々をどうするかというと、奴隷化にするか、器官資源の畜生にするか、多くのやり方で少子化を進め、少しずつ絶滅させるかというようなことを理論化し、部分的に政策しようとする動きがどんどん現代では世界中に強くなってくる。その証拠の一つには、堕胎をはじめ、安楽死、生まれつき障害者の殺人、また堕胎された赤ちゃんの身体を買い、実験体にするスキャンダルなどが最近少しずつアメリカを初め現れてきた。
結論は簡単だ。人工知能をはじめ、トランスヒューマニズムのイデオロギーはもう一つの革命的なイデオロギーであるにすぎない。新人間を創ろうとする。人間が天主であるということを信じ間違っているに過ぎない。そして、それに伴う弊害は多く出てくるので、我々は立ち上がり、人間性に沿った、生命を尊重した、神秘を尊重した自然法と勧善懲悪に従った政治と社会が続くように踏ん張っていくべきであろう。それよりも我々は一人一人の置かれているその立場で、その出来る範囲で、できるだけ立派になってゆき、自己犠牲という精神を養い、滅私奉公の精神を養い、伝統的に善く振舞い、力強い真面目な家庭を作り、その信念を引き継いでいこう。
革命的な多くのイデオロギーが提供するような不気味な未来を拒否し、将来に向けて我々が積極的に連綿とつらなる人間性に基づいて、できるだけ忠実に、地味ながらも最終的に勝利するために戦っていくべきだ。覚悟はいいかい。現世は楽園ではない。戦場である。戦闘するというのはかならずしも体を持ってなのではなく、これは霊的な戦闘であり、実践においてあらわす戦いである。
最後に、聖霊の導きを希い、聖母マリアの加護を伏して祈り、イエズス・キリストに倣うべく、真理を語り、道を実践し、自然なる生命を昇華させる超自然なる生命を頂くように、また日本をはじめ、我々全員が天主様の祝福を賜るようにお祈り申し上げる。
ポール・ド・ラクビビエ
Cet article met en garde sur le transumanisme et fait un point sur “l’intelligence artificielle” qui est toute sauf intelligente.